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zoom RSS ドラゴンボールバトルの論理性

<<   作成日時 : 2017/05/13 03:33  

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ひさしぶりの更新になる。

最近はツイッターばかりで、ブログではろくに宣伝もしていなかった。
「マジャン」のマンガ図書館Zでの公開や「おとうふ次元」の完結についてもまだ書いてない。
いつかちゃんと…と思いつつも放置してしまっており、そんな状態でアレなのだけど…

ネットである記事をきっかけにぐだぐだ考えていたことが長くなり過ぎたので、覚え書きとして記しておこうと思う。





先日、ネットでとある記事を見かけた。

残忍だった頃のベジータの圧倒的キャラ立ちについて (リンクあり)

この記事はマンガ『ドラゴンボール』のキャラクターであるベジータにスポットを当てたものである。
文章ももちろん面白いのだが、注目すべき点がいくつかある。

そのすさまじい画力に目がいって看過されがちだが、鳥山明のセリフのセンス、的確さについてきちんと注目している点がひとつ。
もうひとつ、ベジータの人間性についてだけでなく、バトルにおける論理的・合理主義的な側面について言及している点である。



ベジータに限らず、ドラゴンボールのバトルは論理的である。

…と飲みの席などで主張すると、「そうかな?」という反応をよくもらう。
「ドラゴンボールの世界ってわりと何でもありだし、バトルもとにかく戦闘力がインフレしていく脳筋バトルじゃないの?」と。

これには明確に異を唱えたい。

ドラゴンボール(マンガ)におけるバトルには厳格な一定のルールが存在する。

基本は「一対一なら戦闘力が上の者が勝つ」

当たり前じゃないかと言われそうだが、多くの少年マンガにおいてこういった原則はいとも簡単に破られる。
弱いはずの主人公が感情の昂りによってなぜか相手を圧倒したり、くらったダメージを無視してワンパンで敵をKOしたり…。
主人公補正などと呼ばれる強引な結果の捻じ曲げは、ドラゴンボールにおいてはほぼ見られない。

(一部ファンの間では、戦闘力差が1.3倍以上のマッチは覆らない、とする説もある)



ドラゴンボールではこの基本ルールにいくつかのルールが追加されていく。

追加基本ルールとしては

「戦闘力=パワー=防御力=スピード」
「戦闘力は攻撃や被ダメージのたびに減少」
「気の攻撃は遠隔攻撃可で攻撃力も消耗も大」
「戦闘力の基本値は修行で上がる」
「戦闘力が残っていても内臓や脳をやられれば死ぬ」
「仙豆は戦闘力とケガを回復できる」
「潜在能力を解放できる人や物がある」


など。
これらはドラゴンボール世界の物理法則であるともいえる。



バトルが激化するサイヤ人編で話が進むとさらに、

「戦闘力はコントロールできる種族とできない種族がいる」
「気を感じ取ることができる種族とできない種族がいる」
「サイヤ人は死にかけてから回復すると戦闘力の最大値が上がる」
「変身すると戦闘力が上がる」
「合体すると戦闘力が上がる」


などのルールが追加されていく。



種族や個人限定の特殊ルールも多く、中には先のルールを破るものも出てくる。

・悟空の界王拳、元気玉、瞬間移動
・クリリンの気円斬
・グルド、餃子、界王神の金縛り
・ピッコロ、セル、ブウの再生能力
・人造人間の無限エネルギー、バリア、気の吸収、気を持たない性質
・トランクスのパワー↑スピード↓変身
・ダーブラ、バビディ、ブウの魔術


など。

それら例外の持つ力は、カードゲームでいうところのキーワード能力(基本ルールより優先されるルールを持つ力)であり、そのキャラクター固有の能力とも呼べる。
これらにきちんと対応できるかが戦闘力の高低に次いで勝敗を左右することも多い。



つまりドラゴンボールは、パワー比べを基調とした能力バトルの一種なのだ。

(先ほどドラゴンボールには感情の昂りによる補正はないと言ったが、孫悟飯はどうなのだ、と言われるだろう。
悟飯は単に「感情の昂りで戦闘力が上がる特殊能力を持つ」キャラであり、作中ではかなり異質な存在として描かれている。)



ドラゴンボールのバトルは常にこういった新しいルールを追加し続けながら変化してきた。

・占いババやレッドリボン軍編あたりのビックリ人間勢揃いバトル
・桃白白やピッコロ戦でのガチな殺し合いバトル
・天下一武道会での場外負けありの競技バトル
・サイヤ人〜フリーザ編での団体戦+変身や回復を計算に入れた消耗戦
・人造人間編、ブウ編での合体がキーポイントとなる対人外殲滅戦

終盤はただ戦闘力が高いだけの敵はむしろ少なく、(最終的にその時点での戦闘力が上の者が勝つとはいえ、)どうやって特殊ルールをクリアするかのバトルになっていった。

こういった特殊ルールの煩雑さ、導入の唐突さが肌に合わない人からすると、ドラゴンボールはともすれば恣意的でいきあたりばったりなマンガに思えたかもしれない。
が、なんでもありのように見えてもそこには一貫した論理性があり、世界を広げるためのアイデアがあり、次を期待させるだけの意外性がちゃんとあった。

ドラゴンボールは常に新しい世界を開いてくれており、その扉のさらに先が見たくて、僕らは夢中でページをめくったのである。



(ドラゴンボールのバトルが論理的であることの証明として、その人気からしても異常といえる数のゲームが作られている点が挙げられる。
法則性がしっかりしているのでゲームに落とし込みやすいのだと推測される。)





ここからは本当に蛇足になるし、ネガティヴなことも書かれているので、今の「ドラゴンボール超」が好きな方はできれば読まないでいただきたい。
あくまで個人的な思いを正直にぶつけている。



近年ドラゴンボールの新作がアニメで公開されている。

17年ぶりの新作となる劇場アニメ「ドラゴンボールZ 神と神」から始まり、TVアニメの「ドラゴンボール超」へと続くシリーズがそれである。
過去に作られた「ドラゴンボールGT」や多くの劇場版などと違い、このシリーズは鳥山明が原案や脚本を勤めるとされ、位置的にも原作のブウ編のあとを描く「正史」とされている。



私はこのシリーズが嫌いである。

正確には、2作目「ドラゴンボールZ 復活の『F』」以降のドラゴンボールを正史と認めたくない。
なぜなら、上に挙げたようなドラゴンボールバトルの論理的側面を、この「復活のF」以降ではかなぐり捨てているように思われるからである。

なぜか「復活のF」では引退したはずの亀仙人がフリーザ軍相手に大活躍、
なぜかピッコロはブウやセルどころかザーボンレベルのザコ敵シサミに敗北し、
なぜかフリーザは進化前の状態でブウより強いアルティメット悟飯を圧倒し、
なぜか悟空はちょっと油断しただけで小さな光線銃に大ダメージを受ける。


そこに原作のドラゴンボールが守ってきた論理性は、合理主義性は、アイデアはない。
往年のドラゴンボールであれば、これらを成立させるためのロジックをきちんと納得できる形で用意するはず。
ただお祭り的な盛り上がりに作品ルールが奉仕させられているのだ。



この破綻、というか原作との断絶はTV版の「ドラゴンボール超」にも引き継がれ、「神と神」で開かれた新しい扉の向こうに期待した私を失望させた。
スケールの広がりと反して世界観は単純化し、キャラクターは改変され、肝心のバトルには章ごとの指針も目新しさもない。
「鳥山明が協力」という一言がなければ、いつものパラレルワールドだから仕方ないね、で済ませられるのに…

(もちろんこんなことを気にせず楽しんでいる方も大勢おられると思う。
だが、私には無理なのだ。
自分がドラゴンボールに惹かれたのは前述の論理性と肉体性の融合したバトルであり、今更そこはいいじゃない、と言われてももう変えられないのである。)



それでも私は今後もドラゴンボール超を見続けるだろう。
いつか新しく爽快なバトルが見られる日を(それが無理なら鳥山明がこれは正史ではない、と言ってくれる日を)待つだろう。

かつてドラゴンボールのバトルが放った鮮烈な輝きは、いつも常識の一歩先にある。



※ドラゴンボールのバトルが論理的であることの重要な要素として、鳥山明の圧倒的な画力と画面構成力、記号的な画面処理、その異常なまでのロングショットの多さなどが挙げられるが、話が広がりすぎるのでまた別の機会があれば書くかもしれない。

※ドラゴンボールについては様々な論評があると思うが、私はそれらをあまり把握していないので、かなり今更なことを言っているな…と感じられたら申し訳ない。
素人の粗い考察であり当然及ばない点も多いと思われる。
そう感じたなら、駄文にお時間を無駄に費やさせたことを謝りたい。

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